映画「怒り」(監督:李相日)を観て,まず初めに感じたことは,なぜこの映画のタイトルが「怒り」なのか,ということだった.タイトルである怒りであったり,サスペンス映画としてのスリルだったりは全編において重要であったが,この映画を通じて投げかけられている主題は「信じること」だったと感じた.家族や友人ならまだしも,素性が知れない赤の他人を心の底から信じることは難しい.
国家間の安全保障のような大きなスケールから飲み屋でツケるような小さなスケールまで様々なレベルまで,信頼に基づいたやりとりはあたりまえに行われている.しかし,なぜそんなことができるようになったのかはよくわかっていない.信頼の仕組みをよくわからなくしているものは,「信頼を裏切ったらいちばん有利」ということである.とつぜん目の前に現れた見ず知らずの赤の他人は,次の日には突然いなくなってもかまわないのである.あるひとに信頼を向けたとしてもそれに応えてくれるかどうかはわからない.もし信頼がほんとうにあるとすれば,それを大切にするひとはいちばん割を食って,信頼をないがしろにするひとがいちばん甘い汁を吸うことになる.こんなことを言うと,だから約束があったり法律があったりするんじゃないかという反論が聞こえそうだが,それについては順序を考えたい.法律などは形のあるものではないが人工物である.それらがある前から,信頼をもとにしたやりとりは非効率ながらも存在して,そのやりとりを効率化するために発明されたと考えるほうがもっともらしい.
約束が生まれる前の信頼はどのようなものだったのだろう.想像するのは難しいが,言葉での約束がないとすると打算的というよりもっと情緒的であったと考えられる.ここでいう「情緒的」とは,「怒り」のような衝動的で攻撃的な感情だとすると説明しやすい.誰だって怒りを向けられれば不快な気持ちになる.これは身体的な危険を感じるからであろう(殴られるとか殺されるとか).信頼を裏切られた人間は怒りを表す,周りの人間はそれを見て良くない気持ちになるので,裏切るようなことがしづらくなる.こう書くと人によって多少ムラがありそうだ.怒りに対して鈍感な人は本人も気付かぬまま何度も裏切りを行ってしまっていたかもしれないし,むしろわざと怒りに気付かなかったようなふりをすることも可能そうである.
ここで,感情の起伏がほとんどない人のことを考えてみる.この人は,怒りを向けられた時も不思議と平静でいられるし,裏切られたとしてもあまり怒りを覚えたりしない.ただ,自分の中で感情の起伏がないとしても,普通に生活していると,「怒りを向けられると目線をそらしたり,身をすくめたりするようだ」とか,「信頼を裏切られると顔が赤くなったり,大声を出したりするようだ」,とかいうようなことはわかるし,そこから「怒ったふり」や「怖がったふり」をすることはできる.この人は,信頼から生まれる利益や損失について,感情とは別にして考えることができ,「怒り」や「恐れ」をまるでカードのように「使う」ことができるかもしれない.ここまでで例に挙げたような人は,「サイコパス」と呼ばれたりする.ちまたでは,「人の気持ちをおもんばかることができない」というような意味で使われているようだ.ただ,ここではあえて別の言い方をしたい.彼らは,「自分を含む人の気持ちと損得を別のものとして考えることができる」のである.
前に書いた通り,今ある社会は,信頼にもとづくやりとりを効率化するために組み立てられた巨大なシステムとしてとらえることができる.ここでは,信頼はルールによって決められている.情緒的なことも多少は関係するが,裏切りがあった場合には,ルールにそって罰を与えるのが正しいとされていることから,現代社会では,信頼のゲーム的な要素がより重要となっているように思われれる.この「信頼ゲーム」の中で,感情は障害として取り除かれるべきものとして取り扱ったほうがよさそうだ.行動が感情に振り回されやすい人と,行動と感情を切り離せる人とがいたとすると,このゲームで「成功」するのがどちらの人であるかは明らかだろう.情緒的なつながりが十分になくても,ルールを守っていれば信頼が生まれることもある.
3人の素性の知れない男たちが登場するこの映画では,それぞれが周囲の人々とのやりとりを繰り返す中で,情緒的にも打算的にも信頼が生まれてくる様子が描かれていく.全員が「信頼のルール」を表面上は守りながら,どこかで不信を振り切れず,周囲との溝を埋めきることができない.この歪みが頂点に達する映画のクライマックスで,3人のうちの1人から「お前はオレの何を知って信じてたわけ?」と問いかけるシーンがあった.突如としてあらわれた全ての男たちについて,もちろん裏切らない保証など何もない.ただしばらくの間は無害,というよりむしろ親身であっただけである.そこで生まれる情緒的なものをもし彼が十分に理解できないのだとしたら,この問いに答えるのは恐ろしく難しい.
現代社会について,上で少し触れたように,やりとりの中にある感情を取り除いて,「効率」を追い求めた一部の風潮によってズレが生じているのではないか.信頼のルール性・ゲーム性に重きを置き過ぎた結果として,「怒り」のような感情がおいてけぼりになってしまっているのではないか.人が協力の中で生きていくために信頼関係は必須である.感情を棚に上げながら生活することを学べば,サイコパス的な傾向は高まるであろう.そこで生まれる「情緒なきドライな信頼」に多くの人々が納得することはできるのだろうか.
ここに書いたこと以外にも感じたことは多々あり,それらはここで挙げた議論と矛盾するものもあったため,様々な側面を省きながら単純化した.一部,議論を展開するためにあまりに単純化し過ぎた部分はあるが,個人的に考えたことは以上である.個人が個人でありながら,多様な他者と信頼を獲得しながらつながっていくのであれば,それはルールに基づくだけではなく,深い感情の理解にも基づくものであるだろう.打算と情緒のどちらに偏っても信頼はいびつな形をもって,人間を傷つけ得る諸刃の剣なのである.