2020、再開

ご無沙汰しておりました。1年としばらくなのでご無沙汰どころではない。
1年としばらくが経ち、働く人としての立場も変わったため、仕事のログをこういうオープンな場所に積み上げていくということが難しくなりました。

オープンサイエンスや、サイエンスコミュニケーションに感化されてサイトを開設したこともあり、書くことなくなったな〜と思っていたら1年としばらくが経っていたということです。

というわけで、仕事のことは置いといて、考えたことをランダムノート的に書くというコンセプトに鞍替えし、(過去の記事も消す必要はないのだけど、一部抹消し)気分を新たにやっていきます。

元々はサーバでプログラムを走らせて、オンラインでデータ収集しようと考えていたので、少し高機能なサーバをレンタルしていた。結局プログラムを書くまではやったがほぼ実現しなかったので高い勉強代となったわけだが、雑記が目的となったので、サーバのランクを下げるなどして維持費を節約しつつ運用していく事にした。

もっと言えば、サーバもドメインも必要ないし、無料のウェブログサービスは群雄割拠の時代だけども、インターネットに場所と屋号があるのはなんか気分がいいので、出費を最小限にしつつ維持していきます。誰に向かって宣言してるかわかりませんが。

総決算

ここに来て人生の前半戦とも言える期間が終了するんだという感慨が溢れてきた。流動的だった好みや習慣が少しずつ固着してきて言葉で表せるようになり、より強固な土台となっていく。自分が過ごしてきた日々がダイジェストとなり、日記をめくるように、アルバムを眺めるように懐かしむ。自分の人生はこれでよいのだという、緩やかな自己肯定感。こうやって人は落ち着いておじさんになるのかと感じる。おじさんにはなりたくない(支離滅裂な発言)。

こんなことを書いてスピってはいるけど、まだまだやることがたくさんあって困る。時間はたくさんあった。でもその使い方にムラがあった。でもそれでよかった、という開き直り。できるだけをやっていく。

2018年末

どうも,大乱闘スマッシュブラザーズSPECIALをやりたいけど,スプラトゥーン2で忙しい.

マイルストーン拾いシリーズは公開するモチベーションが続かなかったので廃案.そもそもToDoリストはプライベートで作ればよい.これ当たり前.

別の使い方を模索していく過程で,技術メモを残すアイデアを実行してみました.せっかく,データ分析にR,心理学実験環境にjavascriptなどを触っているので,コンテンツとして利用させてもらいます.問題につまづいたところから,それを解決した過程を残せたらと思います.

あと,この間からUBER EATSの運び屋(配達パートナー)として,働き始めました.1週間くらいの感想としては,働いているというよりゲームをしている感覚に近いです(もちろん,事件や事故の危険性はあるので,ある程度の緊張感は必要です).東京でのUBER EATS体験記,Tipsなどはたくさんありますが,京都のはまだまだ少なそうなので,そのあたりも肌感覚を交えて記録としてシェアできればと思います.とりあえず,UBER EATSを始めたい人は下記のURLから招待コードを利用して登録してもらえると嬉しいです.
https://partners.uber.com/i/hitoshit45ue

年末ですね.僕は今年度で博士号を取るべく,博士論文の執筆に追われて走り,高学歴ワーキングプアとして収入を1円でも増やすべく,UBER EATSに呼ばれて走る年末となっています.ゆっくりと休みたい.来年度の光を追いつつ,しかし光となって現世から消えてしまわないように気を付けながら慎ましやかに過ごします.有難うございました.

TOKYO CITY NIGHT

5月に東京へ行った話を書きます.別に夜の話だけをするでもないけど,NIGHTって書きたかっただけ.

まずこの旅の大目的を述べておくと,国立新美術館でやってたミュシャ展を見に行くことでした.
それに「付随する」と言うにはあまりに多様で愉快なイベントを巻き込みながらうねったのが今回の旅でした.

苦学生よろしく夜行バスでKYOTO -> TOKYOを移動.だけど座席は三列シート.マスク,アイマスクとネックピローの完全武装で臨めば車内はそんなに苦ではない.

到着即銭湯.燕湯で朝風呂をいただく.湯温が高すぎ&水風呂なしで江戸を感じた.なぜか風呂の縁に座ることすら禁止されておりハードコア入浴を余儀なくされた.ゆでダコになって出発.

ルノアールで(作業してから)モーニング食べてミュシャ展へ向かう.着いたら外から長蛇の列...だったがこれは草間彌生展のらしい.ただ,入場券売り場は二重にも三重にも折り重なった列をなしていた.ここで森山未來を発見.この旅で一番のテンションになる.東京の人はなぜ有名人をスルーできるのか.僕だけが妙にソワソワしてしまって怪しくなった.
ミュシャ展,スラブ叙事詩がデカすぎた.今のところ今年度の展覧会の中では入場者数が一番多いらしいけど,それも納得.1枚を見るだけでもたいへんなエネルギーを消費するのにそれが20枚あると言われてどうすればいいのか.ベンチに座って1日3枚ずつくらいのペースで観覧したい.チェコに1週間くらい行けば実現できるぞ...

謎のスコールなどにも見舞われ,けっきょく4時間くらい国立新美術館に滞在.お腹を空かせた二人は表参道に繰り出すも中途半端な時間で満足な飯にありつけず.ポスト太子楼である中華料理 燕もしまっていて残念.

暗くなったので,お腹に物足りなさを覚えつつも上野へ飛び出した.twitterの人たちと邂逅して飲み歩く.昇龍 part2のおっちゃん,軽薄なノリで客と自分を楽しませていた.たきおか,大統領と黄金の流れでフィニッシュ.東京にいる会いたい人に会えてよかった.なんか緊張したのかあまり話せなかったことが多かったのでまた会うぞ!

あざみ野で夜を明かし,その辺の公園で朝ごはんを食べたりしていたらもう昼.急いで都心に戻って,昨日は入れなかった燕へ突撃.太子楼フォントを生で見て感動し,中に入って内装に感動し,さらに出てきた料理のクオリティに感動,支払いの際には良心的な価格に感動した.なんて良い店なんだ.近所にあったら週1で行ってしまうわ.

午後は,ショッピングを楽しむ.表参道で良いカバンを閲覧.デカい革トートへの想いを募らせる.そこから代々木公園へ向かってまったりとしたあと,東急に乗って祐天寺へ.友だちに教えてもらったショップであるfeetsとsteefを物色.質がすばらしい.それぞれ運命的な出会いを果たして商品をお持ち帰り.とてもいい買い物だった.

暗くなるまで祐天寺にいたので,その辺の寿司屋で帰りの新幹線で食べる寿司を購入し,東京駅へ.自由席で優雅に上洛.新幹線で食べる寿司,飲むビールはなぜあんなにおいしく,かつ人々を眠りへ誘うのか.スヤスヤと寝息をたてながら帰路につくのであった.

おしまい.

気付けば年度末

お久しぶりです.前の投稿が2か月前...タイトルが「コツコツ続けること」ってナニ生意気を言ってんだ.
ただコツコツとした進捗はあるので,めげずにこの2ヶ月の情報をいくつか紹介します.

・引き続き心理学ニュース出演
前回
前々回の投稿で触れた心理学ニュースですが,前回の紹介から新たに4つのエピソードが投稿されました.

第18回「子どもに肝心な時の冗談はNG」
第19回「リズムは信頼の肝心かなめ」
第20回「共通の記憶に脳のどこが関わるか」
第21回「ドラマは思い出をよみがえらせる?」

すべてのエピソードでまたまた助っ人として参加しています.特に,第19回「リズムは信頼の肝心かなめ」では,僕が論文を紹介させていただきました.取り上げた論文は今年1月6日に投稿した記事で紹介した論文と同じものです.他のパーソナリティの方とディスカッションを交えながら説明したので,記事よりも深く説明できているように思います.他のエピソードもあわせてスキマ時間がございましたらぜひ.

「心理学ニュース」WEBサイト(Facebookページ)
https://www.facebook.com/shinrigakunews/
オンラインで聞けるアーカイブ(公式にはiTunesのポッドキャストで配信)
http://www.podcastchart.com/podcasts/-9cd4c50c-2eef-48e0-a3a3-4a9941cc9a6a

・Webでできる心理課題の準備
イントロに書いたWebベースの心理課題,とりあえずひとつめが最終段階に入った.来月にはお披露目できるかと.ローンチ,なんて,使っちゃうかそんな言葉も...!

・ランミーティング
走りながらミーティングするという狂気の企画が始まった.ただ,走りながら話すと結構はかどる.あと,体力をつけるほどランニング時間が長くなる,つまりミーティング時間を長く持つことができるので,体力をつけるモチベーションも高まるのではないだろうか.デスクワーク中心のITエンジニアリングベンチャーとかに採用してほしい.

他にもいろいろありましたが,今回はこんなところで.
来年度の目標は「コンスタントな進捗とそれに伴う更新」とさせてもらいます.それではまた!

コツコツ続けること

2016年後半,続けてきたことが芽吹く様をたくさん観察した.挙げだすとキリがないけど,みんな見えないところでコツコツやってるんだな...自分にとってのそれは研究と自炊録くらいのことですが,昨年の芽吹きを励みにして,今年も腐らずにコツコツ続けることを頑張ります.

前回紹介したPodcast番組「心理学ニュース」にまた出演しております.参考記事

オンラインで聞けるアーカイブ(公式にはiTunesのポッドキャストで配信)
http://www.podcastchart.com/podcasts/-9cd4c50c-2eef-48e0-a3a3-4a9941cc9a6a

「心理学ニュース」WEBサイト(Facebookページ)
https://www.facebook.com/shinrigakunews/

第17回「あなたは私を友達だと思ってくれますか?」にまた助っ人として出演.前回と同様に僕はあまり話せていませんが,良い内容になってます.スキマ時間にぜひ.

怒りと信頼

映画「怒り」(監督:李相日)を観て,まず初めに感じたことは,なぜこの映画のタイトルが「怒り」なのか,ということだった.タイトルである怒りであったり,サスペンス映画としてのスリルだったりは全編において重要であったが,この映画を通じて投げかけられている主題は「信じること」だったと感じた.家族や友人ならまだしも,素性が知れない赤の他人を心の底から信じることは難しい.

国家間の安全保障のような大きなスケールから飲み屋でツケるような小さなスケールまで様々なレベルまで,信頼に基づいたやりとりはあたりまえに行われている.しかし,なぜそんなことができるようになったのかはよくわかっていない.信頼の仕組みをよくわからなくしているものは,「信頼を裏切ったらいちばん有利」ということである.とつぜん目の前に現れた見ず知らずの赤の他人は,次の日には突然いなくなってもかまわないのである.あるひとに信頼を向けたとしてもそれに応えてくれるかどうかはわからない.もし信頼がほんとうにあるとすれば,それを大切にするひとはいちばん割を食って,信頼をないがしろにするひとがいちばん甘い汁を吸うことになる.こんなことを言うと,だから約束があったり法律があったりするんじゃないかという反論が聞こえそうだが,それについては順序を考えたい.法律などは形のあるものではないが人工物である.それらがある前から,信頼をもとにしたやりとりは非効率ながらも存在して,そのやりとりを効率化するために発明されたと考えるほうがもっともらしい.

約束が生まれる前の信頼はどのようなものだったのだろう.想像するのは難しいが,言葉での約束がないとすると打算的というよりもっと情緒的であったと考えられる.ここでいう「情緒的」とは,「怒り」のような衝動的で攻撃的な感情だとすると説明しやすい.誰だって怒りを向けられれば不快な気持ちになる.これは身体的な危険を感じるからであろう(殴られるとか殺されるとか).信頼を裏切られた人間は怒りを表す,周りの人間はそれを見て良くない気持ちになるので,裏切るようなことがしづらくなる.こう書くと人によって多少ムラがありそうだ.怒りに対して鈍感な人は本人も気付かぬまま何度も裏切りを行ってしまっていたかもしれないし,むしろわざと怒りに気付かなかったようなふりをすることも可能そうである.

ここで,感情の起伏がほとんどない人のことを考えてみる.この人は,怒りを向けられた時も不思議と平静でいられるし,裏切られたとしてもあまり怒りを覚えたりしない.ただ,自分の中で感情の起伏がないとしても,普通に生活していると,「怒りを向けられると目線をそらしたり,身をすくめたりするようだ」とか,「信頼を裏切られると顔が赤くなったり,大声を出したりするようだ」,とかいうようなことはわかるし,そこから「怒ったふり」や「怖がったふり」をすることはできる.この人は,信頼から生まれる利益や損失について,感情とは別にして考えることができ,「怒り」や「恐れ」をまるでカードのように「使う」ことができるかもしれない.ここまでで例に挙げたような人は,「サイコパス」と呼ばれたりする.ちまたでは,「人の気持ちをおもんばかることができない」というような意味で使われているようだ.ただ,ここではあえて別の言い方をしたい.彼らは,「自分を含む人の気持ちと損得を別のものとして考えることができる」のである.

前に書いた通り,今ある社会は,信頼にもとづくやりとりを効率化するために組み立てられた巨大なシステムとしてとらえることができる.ここでは,信頼はルールによって決められている.情緒的なことも多少は関係するが,裏切りがあった場合には,ルールにそって罰を与えるのが正しいとされていることから,現代社会では,信頼のゲーム的な要素がより重要となっているように思われれる.この「信頼ゲーム」の中で,感情は障害として取り除かれるべきものとして取り扱ったほうがよさそうだ.行動が感情に振り回されやすい人と,行動と感情を切り離せる人とがいたとすると,このゲームで「成功」するのがどちらの人であるかは明らかだろう.情緒的なつながりが十分になくても,ルールを守っていれば信頼が生まれることもある.

3人の素性の知れない男たちが登場するこの映画では,それぞれが周囲の人々とのやりとりを繰り返す中で,情緒的にも打算的にも信頼が生まれてくる様子が描かれていく.全員が「信頼のルール」を表面上は守りながら,どこかで不信を振り切れず,周囲との溝を埋めきることができない.この歪みが頂点に達する映画のクライマックスで,3人のうちの1人から「お前はオレの何を知って信じてたわけ?」と問いかけるシーンがあった.突如としてあらわれた全ての男たちについて,もちろん裏切らない保証など何もない.ただしばらくの間は無害,というよりむしろ親身であっただけである.そこで生まれる情緒的なものをもし彼が十分に理解できないのだとしたら,この問いに答えるのは恐ろしく難しい.

現代社会について,上で少し触れたように,やりとりの中にある感情を取り除いて,「効率」を追い求めた一部の風潮によってズレが生じているのではないか.信頼のルール性・ゲーム性に重きを置き過ぎた結果として,「怒り」のような感情がおいてけぼりになってしまっているのではないか.人が協力の中で生きていくために信頼関係は必須である.感情を棚に上げながら生活することを学べば,サイコパス的な傾向は高まるであろう.そこで生まれる「情緒なきドライな信頼」に多くの人々が納得することはできるのだろうか.

ここに書いたこと以外にも感じたことは多々あり,それらはここで挙げた議論と矛盾するものもあったため,様々な側面を省きながら単純化した.一部,議論を展開するためにあまりに単純化し過ぎた部分はあるが,個人的に考えたことは以上である.個人が個人でありながら,多様な他者と信頼を獲得しながらつながっていくのであれば,それはルールに基づくだけではなく,深い感情の理解にも基づくものであるだろう.打算と情緒のどちらに偏っても信頼はいびつな形をもって,人間を傷つけ得る諸刃の剣なのである.

夢と旅

夜行バスで旅に出ると,起きると旅先に到着していて,眠るともといた土地に戻っているので,旅そのものが夢みたいに感じる.最近になって特急券を駆使するようになり,帰ってきて旅を振り返ると,旅先にいた記憶ばかりが思い起こされてそれはまるで白昼夢のようだ.ということで,先週末は金沢へ行ってきた(出張).

金沢への旅は,2012年5月以来2回目.ただ旅といっても今回は自由時間が2日で5時間くらいしかなかったので,ほとんど移動時間にあてた.楽しんだのは食事くらいか.ただ,竪町と呼ばれる地域を少し歩くと,かつての記憶が突如としてたちあがり,観光というわけではないが楽しんだ.そもそも金沢は日曜日が定休日のお店が多くて,営業時間もほどほどで暗くなるのが早かった.日曜日に仕事が終わってからでは観光も買い物も楽しむことは難しい.よいホテルに泊まったことと,食事がおいしかったことは幸いだった.訪れた場所を以下に記しておく.
ホテルパシフィック金沢 (ホテル)
ひらみぱん (モーニング)
洋食屋 RYO (ランチ)
わ食堂 はす屋 (ディナー)

また(出張でなく)行きたい場所だった.あてもなく歩きたいので,できれば春か秋ごろ,日数は3日ほど欲しいが,最低でも2日はいるだろう.土日は避けたほうがよさそう.

ちちんぷいぷい

気付けば前の投稿から10日も経っていた...せめて毎日何かを書いていたい.公開するにせよしないにせよ.

いまひとりで住んでいる部屋にはテレビがない.だからといって生活で特に困ることはない.ただ,ある時ふと見たくなるテレビ番組はいくつかある.ちちんぷいぷいなどがそうで,平日昼間から実家に帰ることができた場合は,なんとなくぷいぷいを見て夕方6時を迎えることがほとんど.番組を取り巻くゆるい雰囲気が好みで,いろんなひとが思い思いに話している感じで見ていると落ち着く.基本的にはなごやかなトピックが多いが,社会問題などのシビアなトピックを取り扱うこともある.そんなときもあまり重い空気にはならないからすごい.

このあいだは,大統領選の速報をやっていた.あいかわらずのトーンで進行されていて,ほかのチャンネルに比べるとそのすき間がありがたいような感覚だった.信じがたいと言われるような結果が出たわけだけど,現実に出たものは出たのだからそれを受け止めて,考えたり行動したりしなければならない.なんとなく,今まで信じていた正しさのあり方を考え直したほうがいいのかなと感じている.

そのほかにもいろいろ思うところもあるけど一旦置いておく.こういう慎重な姿勢が評価されるのは幻想なのかもしれないな.

諸書類のデザイン

忙しい忙しいと言っていたら一週間も経ってしまった.

ここ最近は,海外とのやりとりに忙殺されておりました.ただ,忙しさに殺されては良くない.ライフワークとして淡々とこなせるようにタスクを配置していかねば.

何に忙殺されていたかというと,予算執行のためにいくつかの窓口を経由した書類のやりとりや,そのやりとりを海外の共同研究者に伝えたりしつつのスケジュール調整によって,である.

研究機関における書類の問題というとこの話題が耳に新しい.
http://togetter.com/li/1039048
科研費のWord罫線が煩わしい,とTwitterで伝えてみたら,翌年度から即対応されたというもの.これをきっかけにTwitterで各々が感じる書類の煩わしさを直訴していく流れができている.類似した問題に大学ごとの事務手続きが異なっていて統一性・平等性がないというものもある.

これらの問題について,まだ学生の身で研究者1年目が終わった程度ではあるが,痛いほどよくわかる.ただ,前述のようなボトムアップの活動はガス抜き程度の話で終わってしまいそうである.本当にこの問題を解決するなら,デザインの視点を導入することが必要不可欠に思う.研究者が書く書類のことは研究者に聞く,というのは一見妥当なように見えてそうじゃない.労力を最小限にするという目的があるなら,その道のプロであるデザイナーに聞くべき.どちらの問題も,結局のところ問題の根幹は同じで,それはかつての構造をそのまま移植していること.研究者それぞれの使いにくさを吸い上げることも大事だけど,それを統合するデザインの視点が必要.なんか文科省の窓口に意見をコツコツ集めてるようだけど,どんな形でまとめられるか不明で怖い.研究者が集まってデザイナーと一緒になにか素案のようなものを作れると良いのだけど難しいだろうか.

末端と末端がダイレクトにつながることができるゆえに,仲介者の役割が軽視されがちではあるが,統合なしに情報は価値を持たないという考え方が広まって欲しい.今のところただの持論ですが.